仕事が終わり家に帰ると、玄関には高志の靴が脱ぎ捨てられており、春花は無意識にため息をつきながら中へ入っていく。「遅い」開口一番、高志は不機嫌に言い、その言い草に春花もカチンとなって強い口調で言い返した。「来るなら来るって言ってよ」「言ったよな」「聞いてないよ」「仕事終わったか聞いたんだから、来るに決まってる。それくらいわかるだろ?」春花は帰る前に見た高志からのメッセージを思い出すも、それらしき会話をした記憶はない。「わからないよ」「わからないならお前はバカだ。理解力がない」どこまでもあげつらう高志は自分が正しいとばかりに春花を責め続け、相手をひれ伏さんとする。だが春花ももう限界を超えているのだ。いつまでも高志の言いなりにはならない。春花はぐっと拳を握る。「……もう帰ってよ」ようやく絞り出した声は少し震えてしまったが、それでも負けてたまるかという意志が込められている。「ふざけんなよ」高志の言葉は更にヒートアップし、手が出ることはないものの、春花の胸はえぐられるようにズキズキと痛んだ。悔しくて悔しくて、泣きたくないのに涙が溢れてきて、それを見た高志は更に勝ち誇ったように「泣けばいいと思って」と責め立て、ようやく長いケンカが終わったのは深夜になる頃だった。散々罵り春花を泣かせた高志は気が済んだのか、コロッと態度を変える。「俺は春花が好きだから、春花に会いたかったんだ。俺は春花がいないとダメなんだよ」甘えた声はただの耳障りでしかなく、春花は何も返事ができなかった。「春花、ほらおいで」高志は春花に優しい笑顔を向けながら、春花を包み込むようにぐっと抱きしめる。いつもならこれで仲直りをする。いい子でいたい春花は高志のことを許してしまうのだ。だけど今日の春花は違った。もううんざりだとばかりに、抱きしめられても腕はだらんと下ろしたまま、彼を抱きしめ返すことはなかった。
春花は以前よりも静のCDを聴く日が多くなった。静のピアノは春花の癒しになっている。むしろ今この音源が失くなってしまったら春花の心は崩れてしまうほどに、脆く壊れやすくなっている。静は春花の心の支えなのだ。そんな日々の中、また母から転送される形で郵便が届いた。それを目にした瞬間、春花の期待は一気に高まる。『次も来て』以前、静に掴まれた左手首が急に熱を持つような感覚を覚え、春花ははやる心を抑えながら封を開けた。ペラリと入っている一枚のチケット。 手紙も何もない、無機質な一枚の紙。それなのに春花にはずしりと重みを感じるものだ。「すごいよ、桐谷くん」ほう、とついた感動のため息は、久しぶりに春花の心を明るくさせた。静はどんどんと実績を上げ、自分の地位を確立している。そんな静の活躍に感化され、春花もまた、失いかけていた自分の在り方を見直していた。「私も頑張らなくちゃ」春花は携帯電話をぐっと握ると、ずっと言い出せずにいた言葉をゆっくりと文字に書き起こした。【もう別れよう】ずっと高志との関係を悩んでいた。嫌だと思いながらもずるずると高志のペースに流され、完全に自分の気持ちを押し殺していた。そんな情けない自分ともさよならしたい。春花は震える手で送信ボタンをタップする。すんなり別れてくれたら万々歳だ。だが高志のことだからねちっこく文句を言うかもしれない。いろいろと心の準備をしていると、案の定携帯電話が鳴り出した。春花は大きく深呼吸してから耳に当てる。『別れるってどういうことだよ?』怒り口調なのは想定していた。だから春花は冷静に言葉を紡ぐことができる。「……もう嫌なの。束縛されるのもつらい。いつも私は高志を怒らせちゃうし。別れるのがお互いのためだよ」『はあ? 何言ってんの? まさか好きなやつでもできたのか?』「違うよ」『春花がいないと俺は死ぬよ』怒り口調から、急に弱気な声になる。春花は惑わされないようぐっと堪えるが、妙な罪悪感に苛まれる。だがそれを打ち払うかのように首を横に振った。「……大丈夫だよ。今までありがとう」それだけ言うとそっと通話を終了し、深く息を吐き出した。 携帯電話を握りしめるその手はカタカタと震えてしまう。まずは一歩前進といったところだろうか。春花は緊張から解かれたかのようにベッドに身を投げ出した。
◇静のコンサートはまたしても特等席が用意されていた。期待に胸を膨らませながら、春花は舞台を見守る。ここ数日、高志のことでいろいろありすぎて疲弊していた春花だったが、今日のこの日を楽しみにしていた。むしろこのコンサートを励みに日々を過ごしていたといっても過言ではない。やはりグランドピアノに劣らず存在感を放つ静は、スポットライトに照らされてより一層輝いて見えた。流れる旋律は耳に心地良く響いていく。(ああ、いいなぁ)静の音楽に癒されるだけではなく、弾いている姿は春花をうずうずとさせる。(私もピアノ弾きたいなぁ)静の演奏する姿を見ていると、高校の時のあの音楽室での思い出が鮮明によみがえってくるのだ。あの時が一番楽しくて輝いていた。春花はじんわりとした気持ちに思わず目頭を拭った。コンサートが終わるとロビーが人で溢れかえり、しばらくすると黄色い歓声が上がった。(何だろう?)出口に向かって自然と列が出来上がり、春花もその波に乗った。珍しくお見送りがあるのだ。お見送りとは、こういったコンサートの終演後、演奏家がお客様の元へ姿を現し言葉を交わしたりできる貴重な場である。一人ずつ丁寧に対応する静を遠巻きに見ながら、優しいところは昔と何も変わっていないのだと春花は嬉しくなった。
春花の番がようやく巡ってきた。前回のコンサートのときは上手く話せたのに、今日は静を前にすると何も言葉が出てこなかった。薄暗闇で再会したあの日とは違い、明るい場所での対面は春花の心をドキッとさせる。きっちりとセットされた髪は清潔感に溢れ、整った顔がより一層引き立つ。スラリと伸びた手足は長く、タキシードは彼のためにあるのではないかと思わせるほどよく似合っていた。「演奏、素晴らしかったです」何を言おうかと散々考えていたのに、結局出てきたのはありきたりな言葉だった。「ありがとうございます」対して静も淑やかに笑みを称えながら手を差し出す。そろりと手を差し出せば、両手でふわりと包み込まれるように優しく握る。その温かさに息が詰まるほど、春花は囚われて動けなくなった。「桐谷く……」「はーい、進んでくださーい」周りのスタッフが列に声をかけ、その声に促されて人の波が動く。春花はハッと我に返りすぐにその場を去ろうとしたが、握られた手はぐっと握られて離れない。「山名、楽屋で待っててくれないか?」「え?」「話がしたい。名前を言えば通すように手配してあるから」静は春花だけに聞こえる声で囁くと、何事もなかったかのようにすっと手を離した。
大きくて温かな手の感触の余韻がどうか消えないようにと、春花は先ほど握られた右手を胸に抱える。ドキドキと高鳴る心臓の音が伝わってきて、胸がぎゅうっと締めつけられた。「あの……山名春花と言います……」「はい、山名様、伺っております。こちらへどうぞ」「あ、はい」静に言われるまま近くのスタッフに名前を告げると、いとも簡単に楽屋へ案内された。先ほどまでの人の波から外れて、廊下も楽屋もしんと静まり返っている。部屋の中にはドレッサーが何台も設置されており、近くのコート掛けには静のものであろう上着が掛けられていた。春花はドレッサーで自分の姿を確認する。コンサートということでなるべくフォーマルに近い服で来たけれど、鏡に映った自分の姿はキラキラと輝いていた静に比べて何だかみすぼらしく見えてしまう。(何の話をするんだろう。こんなことなら差し入れでも持ってくるんだった)後悔しても始まらない。(でも、桐谷くんとまた会える)静が来るまでの間、期待と緊張で気が気ではなくなり、春花は無駄にウロウロと部屋の中を歩き回った。やがて扉が開いた。「お待たせ、山名」入ってきた静は上着を脱ぎ、ワイシャツの首元を緩める。髪の毛をクシャっと掻き上げると乱れた髪がさらりと流れ、その色っぽさは春花の胸をドキドキさせるには十分すぎるほどの魅力だ。「あ、えっと、単独公演お疲れ様。本当にすごいね」「今回も来てくれてありがとう」「こちらこそ、チケットありがとう」「いや、山名に来てほしかったから」その言葉に嬉しさを覚えながらも、春花は精一杯平常心を装う。「何だか申し訳ないよ。今度はちゃんと自分で買うね」「いや……ところで、今日は彼氏は大丈夫?」「うん、もう別れたから」「そう?」「うん」高志とはあれからまったく連絡を取っていない。高志から合鍵を返してもらわなくてはいけないと思ってはいるが、まずは別れることができて春花は安堵していた。しばらく不安定な気持ちが続いていたが、日々の仕事の忙しさやレッスン生とのおしゃべり、そしてなにより静のピアノが癒しとなり、春花のメンタルは日に日に回復している。「なんか吹っ切れた顔してる」「そうかな?」「この前彼氏と電話してる山名は何か怯えたようだったから」静は心配そうに春花を見つめた。その視線は春花の心を震わせる。「……そんな風に見えた?」
「山名のピアノ、久しぶりに聴きたいな」「恥ずかしいよ。桐谷くんとは雲泥の差なんだから」「いいじゃん。ピアノの先生やってるんだろ? 今度見学に行かせてよ」「ええっ。うちの店に桐谷くんが来たら大騒ぎだよ」「なんで?」「なんでって、こんな有名なピアニストだもん。一曲弾いてほしいって皆が寄ってくるよ」「別に構わないけど」「ええっ、本当に?」「本当に」「きっと店長が両手を挙げて喜ぶよ」春花は、興奮して目をキラキラさせる葉月を想像して、一人クスクスと笑う。そんな春花に静は少し意地悪な笑みを浮かべた。「その代わり、山名のピアノ聴かせてよ。それが条件だ」「え、う、うん」ドキドキしながら頷くと、静は携帯電話を手にする。「じゃあ山名、連絡先交換しよう」「あ、そうだね」いそいそと春花も携帯電話を取り出し、二人は初めて連絡先を交換した。高校生のとき、初めて携帯電話を持った春花。静も同様に携帯電話を持っていた。だが二人とも友達とやり取りするよりも、家への連絡手段としての要素の方が大きかった。平日は毎日放課後に音楽室で過ごす。遅くまで二人でピアノを練習し、帰宅後にあえて連絡を取ろうとは思わなかった。もちろん、卒業前に連絡先を交換したいとは思っていたが、お互いに聞く勇気も機会も逃したまま今に至っている。あれからもう五年経っているのだ。お互いに社会での経験を積んで、ごく自然と連絡先の交換をすることができたことに静は安堵し、そして春花は胸をときめかせた。
足取り軽くアパートに戻った春花だったが、玄関を開けた瞬間に体が強張った。春花は電気を消した状態で外出したはずだが、部屋の明かりは煌々と灯り玄関には脱ぎ散らかした男物の靴がある。まさかと思っているうちに、奥から不機嫌そうな顔をした高志がのっそりと現れ、春花は一歩後退りをする。「……どういうこと?」「やっぱり浮気か」「何言ってるの?」「どこへ行っていた?」「コンサートだけど」「そんなお洒落していくかよ」高志は春花の服装を指摘する。今日の春花はフォーマルに近いワンピースにパンプス、そしてイヤリングを付け、髪は編み込みのアップスタイルでパールのついたバレッタを付けている。ピアノのコンサートだからといってドレスコードしなくてはいけない決まりはなく、カジュアルスタイルでもちろん入場できるのだが、静に会えるという気持ちで普段より服装に気を遣ったことは否めない。春花はバツが悪い気持ちになるが、そもそも高志とはもう恋人ではないのだから罪悪感を感じる必要はないのだ。春花は強い意思を胸に、高志を睨んだ。だがそれ以上に冷たい視線が春花を射ぬく。「……私たち別れたんだから、合鍵返して」「ああ、俺達別れたんだから、お前が出ていけよ」「え……待って。私の家だけど? あなたは寮があるじゃない」「はあー。二十八までしか入れないんだよね。だから結婚して寮を出ようと思ってたけど、お前にあんなこと言われちゃなぁ」「結婚?」「そう。春花と結婚しようと思って寮は解約した。だからここに住むことにした」「……何言ってるの? 意味がわからない」「春花は俺と結婚する気ないんだろ?」「ないよ」「だったらこの家は俺が住むから、お前が出ていけって話」「そんな……。だって、出てくにしても荷物とか」そういう問題ではないのだが、高志の強引で強気な態度に圧されて春花はどんどん弱気になっていく。高志は面倒くさそうに髪を掻き上げると、親指で部屋の奥を指差した。「確かにお前の荷物は邪魔だよな。じゃあ明日俺が帰るまでに荷物なくしておけよ。荷物があったら捨てる。お前がいたら追い出す。わかったか、くそ女」「え、ちょっと……」高志の勢いに圧され、春花はそのまま玄関を出た。と同時にガチャンとドアが閉められる。そしてあてつけかのように乱暴にチェーンが掛けられる音が聞こえた。閉じられた玄関の
翌日、幸いにして夕方のレッスンまで仕事はない。春花は荷物をまとめるためにアパートへ戻った。そろりと鍵を開けると、そこはもぬけの殻だ。あんなモラハラ高志だが、彼は仕事にはちゃんと行くことを春花は知っていた。仕事中の高志の態度は全く知らないが、きちんと出勤するということは最低限のルールは守っているのだろう。「……はぁ。本当に意味がわからない」なぜ自分が出ていかなければならないのか。考えれば考えるほど理不尽でたまらないが、高志とこれ以上争う気は微塵も起きなかった。しかも高志は合鍵を持っているのだ。我が物顔で彼が入り浸る家には、もういたくない。だが、新しい家を探すにも日数が必要だし、なによりまとまったお金がないと動けない。「はぁー」ため息しか出てこない。 考えると高志に貢いでばかりだった。大企業勤めで寮暮らしをしている高志は、お金がないわけないのにいつも金欠だと言っていた。入った給料はスロットで使い果たし、春花にプレゼントひとつしたことはない。幸い銀行のカードは財布の中、パスワードは教えていない。まずは自分の財産に安堵し、荷物の整理を始めた。元々そんなに私物は多くなく、荷物くらい簡単にまとめられると思っていた。だが、いざ整理し始めるとどうしたらいいかわからなくなる。荷物が少ないといっても、さすがにカバンひとつでどうにかなるものでもない。「どうしよう」一日ですべてをこなすのは無理だ。夕方からはレッスンが入っている。それを休むわけにはいかない。春花はその場にペタンと座り込み、荷物を前にして途方にくれた。
「私の夢はピアノの魅力を伝えること。でももうひとつ、静が世界に羽ばたいている姿を見たいんです。わがままなことを言っているとは承知しているんですが……」時折言葉を選ぶように話す春花を見て、葉月は困ったように眉を下げた。「そうね、新規の生徒さんを頑なに入れないから、まあそんなことだろうとは思っていたわ。時間をかけて身辺整理をしていたんでしょう?」「いえ、まあ、残っている生徒さんには申し訳ないのですが」「それは仕方がないわ。こんなことを言ってはなんだけど、あなたの幸せが一番大事よ。私はこの先も辞めるつもりないし、新人も育ってきてる。レッスンのことは気にしなくていいわよ。それで、桐谷さんについていくの?」「いえ、私は遠くから見守るだけで十分かなって。寂しいですけど」てっきり静と結婚、もしくは将来を見据えて春花も海外に行くのかと思っていた葉月だったので、春花の言葉にポカンとしてしまった。理解が追い付かず目をぱちくりさせる。眉を下げながら困ったように微笑む春花。葉月はハッとなって、その肩をガシッと掴んで揺さぶった。「ちょっと待って! どういうこと? 別れたの?」「いいえ、まだ。でも静には私はいないほうがいいって思っています。彼の重荷になりたくないので」「重荷って……。それはあなた、思い詰めすぎよ」「そんなことないです。ずっと考えていたので……」
家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。
「以前、店の前で人が刺される事件があったのはご存じですよね」「ええ、物騒ですよねぇ」「ピアニスト桐谷静の恋人のことは知っていますか?」「ああ、話題になっていますよね、三神メイサでしたっけ?」「三神メイサとは別に恋人がいることはご存じで?」「えっ! 二股ってことですか! やだー」「この店には桐谷静のサインがたくさんありますね。以前彼が来たらしいじゃないですか」「ええ、そうですね、以前来ていただいたんですよ」「どういうツテで?」「それは企業秘密ですよ」「桐谷静の恋人がこの店で働いているから?」「んもー、記者さんったら誘導尋問がお上手だこと。ここだけの話、実は私が大ファンなので知り合いに頼み込んでもらったんですよ。あ、これ他の店には秘密ですからね。絶対ですよ。あっ! もしかして桐谷静の二股の相手って私なのかしら? だとしたら光栄だわぁ」葉月の明るい声と記者の愛想笑いはその後しばらく続いたが、やがて埒が明かなくなったのか、記者の方が根負けて「今日はこのくらいで……」などと言って帰っていった。「あー、しつこい男だった」ため息とともに仕事に戻った葉月は、高くしていた声のトーンを落とす。「店長、すみません。私のせいで……」「社員を守るのも上の仕事よ。気にしないで。それより桐谷静が二股してるとか、その相手が私だとか、嘘言っちゃったわ。ごめんね」「いえ、いいんです。ありがとうございます」葉月の温かさが嬉しくて春花は目頭をじんわりさせた。本当に、良い職場で働いている。自分の蒔いた種なのにこんなにも守ってもらって贅沢ではないだろうか。ありがたいと同時に申し訳なさが込み上げてきて、春花は胸が押しつぶされそうになった。
何もかも順調にいっていると思っていたある日のこと。「すみません」レジで作業をしていた春花は声をかけられ顔を上げた。「はい、いらっしゃいませ」「以前、店の前で人が刺される事件がありましたよね。そのことについて少しお伺いしたいのですが」「えっと……」戸惑う春花に名刺が差し出される。 ぱっと目を走らせると、有名な雑誌社の名前が印刷されていた。「桐谷静の恋人と元彼がトラブルになったことを調べています」「えっ……あの……」ドキンと心臓が嫌な音を立てる。 この記者の目的は何だろうか。ドキンドキンと大きな不安に押しつぶされそうになり、言葉を飲み込む。 春花が何も言えないでいると、様子に気づいた葉月が横からすっと割り込んだ。「お客様、そういったご用件は店長である私がお受けいたしますので、従業員に聞き込みするのはやめて頂けますか? うちも商売なので、他のお客様に迷惑になる行為はやめていただきたいんですよぉ」「ああ、これは失礼しました。では店長さんにお話を伺っても?」「ええ、どうぞ。ではこちらに」葉月はスムーズに人気のないレッスン室の方へ誘導する。ドキドキと動悸が激しくなる春花は、一度大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。葉月と雑誌の記者の話が気になり、こっそりと聞き耳を立てた。
静は単独公演のみならず、三神メイサとのデュオでも大きな実績を上げた。国際コンクールにおいて優勝し、世界の舞台で通用する演奏家として名を馳せたのだ。静とメイサ、二人の偉業は大きく、連日ニュースが飛び交う。『静とは初めて演奏したときから運命を感じていました。これからも長い付き合いになると思います』カメラ目線で自信満々にコメントするメイサに、数々のフラッシュが飛び交う。『桐谷さんも一言コメントをお願いします』『そうですね……。このように受賞できたこと、光栄に思います』二人が微笑み合う姿は多くのメディアに取り上げられ、SNS上では「お似合いの二人」とまで囃し立てられていた。そんなものを目にしてしまった春花はドキンと心臓が変に脈打つ。静とメイサがそんな関係ではないことはわかっているし、静からもいつだって「愛している」と連絡が来る。もちろんその言葉を信じているのだが、さすがにこれだけ話題になると精神的に響くものがあった。「静、おめでとう! ニュースで見たよ!」『ありがとう。春花に一番に伝えたかったけど、メディアに先を越されたな』「それは仕方ないよ。今や日本を代表するピアニストだね」『まだまだこれからだけどね。でも一歩踏み出せたかな』「これからどんどん有名になるんだろうね。なんだか静が遠く感じられるなぁ」『俺はいつだって春花の元に飛んでいくよ』「そういう意味じゃなくて、雲の上の人ってことだよ。本当に、おめでとう。店長なんて大盛り上がりでCD平積みしてたよ」『日本に帰ったらお礼しに行かないとね。春花ごめん、今から祝賀会があるんだ。また連絡するから』「うん、わかった」『春花』「うん?」『愛してる』「私も、愛してるよ」電話越しの静はいつも通り優しく穏やかで、モヤモヤしていた春花の心もすうっと晴れていく。声を聞くだけで安心できるなんて、単純極まりない。そんな自分に春花はクスクスと笑った。
静は海外へ、春花も職場復帰し、いつも通りの日常が始まった。寂しさや物足りなさは密な連絡を取ることで回避され、お互い順調なスタートを切っていた。「山名さん、ニュース見たわよ! さすが桐谷静!」「はい、ありがとうございます!」二ヶ月が過ぎた頃すぐに大成功をおさめたニュースが飛び込んできて、恋人の活躍に春花は誇らしい気持ちになった。店に静が来訪してからというもの、社員たちの桐谷静推しも増している。やはり静が海外に行くことは正しかったのだと、証明しているようだった。「そうそう、山名さん。新規の生徒さんが入りそうなんだけど、受け持ってもらえない?」「すみません、ありがたいお話ではあるんですけど……」「まだ手首に違和感があるの?」春花が無意識に押さえた左手首を見て、葉月は心配そうに尋ねる。「そう……ですね。申し訳ないです」「ううん、いいのよ」「はい、ありがとうございます」春花は申し訳なく眉を下げた。捻挫した左手首はもうすっかり治っている。痛むこともなければ何かに不自由することもない。元通りの状態だというのに、ピアノを弾くときだけほのかに違和感を感じていた。「はぁー」無意識に出るため息は、春花の心をモヤモヤさせる。日々の生活に不満はないのに、なぜこんなにもやるせない気持ちになるのか。「静、頑張ってるなぁ」遠く離れた恋人を想いながら、春花はレッスン室に入っていった。
「私は十分幸せだよ。それより私のせいで静がピアノを弾けない方が嫌だよ」「ピアノなら国内でも弾けるよ。それに俺が海外公演に行ったら春花を守ることができなくなる」「大丈夫だよ。高志は逮捕されたし、私だってそんなに弱くないのよ」「……俺に海外に行けって言ってるの?」まるで運命のように再会してこうして恋人にもなれた。静にはたくさん助けてもらった。今度は春花が静を応援したい。好きなピアノを好きなだけ弾いていてほしい。「私は夢を追いかけている静が好きだよ。私のせいで静が小さな世界にいるのは嫌なの。だから遠慮なく行ってきて。これはチャンスなんでしょう?」春花の口からペラペラと出てくる言葉は嘘偽りない。静にはもっと自由に羽ばたいてほしいと願っているからだ。そして春花自身も、前に進みたいと思っている。静や葉月に守ってもらってばかりではなく、自分の力で未来に向かって進んでいきたい。そう心から思えるようになったのは、やはり静のおかげなのだ。「ねえ、春花の夢はなに?」「うーん、たくさんの人にピアノの魅力を伝えること、かな。静の夢は?」「……ピアノで世界中の人を魅了すること」「だよね。行きたいんでしょう? 行ってきなよ。やらずに後悔しないで。私も静が世界に羽ばたく姿、見たいな」「春花、一緒に……」「一緒にはいかないよ。だって私にはたくさんの生徒さんがいるんだから」ニッコリ笑う春花が眩しくて、静の方が胸が苦しくなる。思わず彼女を引き寄せてかたく抱きしめた。夢と現実は相反する。 手の届く温もりを手放すのは勇気がいるし、それと同様に、抱いてきた夢を諦めるのも勇気がいる。どちらが正しいかなんて誰もわからない。お互いの見据える先は果たして同じ方向を向いているのだろうか。二人が決めた道は未知の世界だった。
◇ 「春花、どうした?」リハビリがてら家でピアノを弾いていた春花だったが、曲の途中で手が止まり、すぐそばで聴いていた静が声をかける。「ううん。何でもないよ」フルフルと首を横に振るが、捻った左手首が思うように動かせず先ほどから納得のいかない演奏に気持ちが沈んでくる。「少しずつだよ、春花」察して静は春花の左手首を優しく撫でる。その心遣いが優しすぎて春花は胸が苦しくなった。いつだって静は春花を優先する。ピアノのリハビリもずっと付き合ってくれている。静だって次の公演に向けて練習をしなくてはいけないはずなのに、「俺はいいから」と身を引くのだ。そんな優しさが、かつての自分を見ているようで苦しい。そんなに気を遣わなくていいのに。 もっとわがままになってくれていいのに。「ねえ静、海外公演を断ったって本当?」「春花、その話どこから……?」「やっぱりそうなの?」「いいんだよ、それは。別にピアノなんてどこにいても弾けるだろう?」「でも夢なんでしょう? 世界中の人を魅了するのが静の夢」核心を突くような言葉に静は息を飲んだ。だがすぐに首を小さく横に振る。「俺の今の夢は春花を幸せにすることだよ」優しさが一層春花の胸を締めつける。それはそれとして静の本心なのだろうと思う。だがその言葉の裏にはやはり自分の感情を押し込めていると思わざるを得ない。静は誰よりも努力家で誰よりもピアノが好きで、もっと世界に羽ばたきたいと願っている。ずっと近くで見てきた春花だからこそ、わかるのだ。
三神メイサの言葉がぐるぐると巡る思考の中、春花の頭の中には高校生の時の静の言葉がよみがえる。『俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ』そう言った静はキラキラと輝いていた。春花はそんな静を応援したいと心から思っていたのだ。(ああ、そうだった。静の夢は世界に羽ばたくピアニストなんだった)そう思った瞬間、春花の心の中にあった何かが崩れ落ちた気がした。静とは一緒にいたい。ずっとずっと好きだったのだから。 ようやく手に入れた自分の居場所。これからも大切にしたいと思っているのに。 自分が愛されている、守られていることをひしひしと感じる幸せな今の生活。でもそれはすべて静の夢を犠牲にして成り立っているという現実。もし静が海外にいったらどうなるのだろう。 もっともっと有名になったらどうなるのだろう。平穏が変わってしまう事を考えると怖くてたまらない。静がいない生活なんて考えられない。でも……。 だからといって、自分のために夢を犠牲にするなんてことはしてほしくなかった。一緒に音大にいけなかった、ピアニストの夢をあきらめた春花にとって、今でも静の夢には全力で応援したいと心から思う。それが春花の夢でもあるからだ。(私なんかのために夢をあきらめちゃダメだよ)込み上げる涙を我慢して、春花はメイサの元を去った。